名勝負・名場面

醍醐敏郎 vs 吉松義彦

昭和26年(1951)5月5日の全日本柔道選予権大会は、講道館・全日本柔道連盟共催、 朝日新聞社後援のもと、両国メモリアル・ホール(旧国技館)で開催された。快晴のこの日、青い空には子供の成長を祝う鯉のぼりが泳いでいた。その下を正午開会というのに、熱心な柔道人やファンが朝9時の開門を待って続々と詰め掛け、定刻前には13,000の大観衆が会場をうずめ尽くして、立錐(りっすい)の余地もなかった。

開会を知らす勇ましい大太鼓の音と共に、万雷の拍手に迎えられて参加数倍増の地区代表32精鋭が堂々と入場。式は嘉納会長の力強い挨拶に始まり、永岡秀一10段の審判上の注意に終わる。次いで佐村嘉一郎10段と子安正男8段の見事な投の形の後、第1回戦の火ぶたが切られた。では準決勝までに展開された30組の戦績の中から吉松、醍醐両選手が勝ち進んだ後を拾ってみよう。(試合時間10分、決勝は20分、延長、引分なし)

吉松選手は鹿児島県出身、177センチ、95.6キロの偉丈夫、上背があり西郷隆盛を思わせる風貌で、気は優しくて力持ちといった好漢。武道専門学校を卒業。30歳。警察官で昭和23年全日本警察官大会に個人優勝した。全日本選手権大会にも毎回活躍という豪快なベテラン選手。吉松は、1回戦で東北の高橋正四6段を払腰で宙に舞わし、3回戦では、外人に絶大な人気のある小兵で背負の名手、関東の朝飛速夫6段を後の先にとって快勝。準決勝は2連覇の大豪石川隆彦7段と対戦した。23年福岡の直方(のうがた)の大会では、石川の体落で、負けている。吉松は負けを返そうと鋭い気迫で先手を取り、左内股で猛攻、さらに左大外で深く、強く刈って完勝。吉松は意気軒こうとして決勝に進出したのである。

一方の醍醐選手は千葉県出身、179センチ、95.6キロの堂々たる体躯。外柔だが浅黒い顔に精かんの気が見える。東京高等師範学校卒業。25歳で講道館職員。昭和24、25年の全日本選手権大会には連続3位となった新進選手。醍醐は1回戦で北海道の二瓶英雄5段を大外刈で先勝。2回戦は、最年少者九州の重松正夫4段と対したが、受けの強い重松を攻めあぐみ、ようやく判定で勝つ。3回戦では古豪松本安市7段の独得強烈な大外刈を懸命にこらえ、時には後腰(うしろごし)に落とし、寝技につけ入り、タイムで、優勢勝となる。準決勝は足を痛め、調子を崩した東京の羽鳥輝久6段と組み、小内刈で技有り、さらに右体落が決まって楽勝。ここに醍醐6段と吉松6段は晴れの決勝戦をすることになった。

吉松と醍醐の激闘

東京代表醍醐と九州代表の吉松両選手が中央試合場50枚の青畳の上に対峙(たいじ)した。互いに礼を交わすと白髪慧眼(はくはつけいがん)の主審三船10段の「始め」の声が響いた。同時に大鉄傘(だいてつさん)を揺るがす拍手がわき起こる。

吉松は左自然体、醍醐は自然本体で組む。吉松は一昨年の大会で、醍醐に右跳腰(はねごし)を返されて負けたのを警戒したのであろう。場内は静まり返った。両者のすり足の音が聞こえるようだ。まず醍醐が左釣込腰と小内刈で、吉松の体を前に後ろに傾ける。吉松さらばと左内股を飛ばし、連攻の跳腰で醍醐を泳がす。吉松内股で連続強襲すれば、醍醐また右内股で応酬。しかし、いずれも受けに精一杯で返す余力はない。汗また汗にまみれる両選手の疲労は、予選で苦労した醍醐にやや多く、技の掛け数もわずかに少ないように思われた。14分、醍醐は体力の消耗と掛けた大技の返しへの安全を考えたか、小技の足技による反攻に転じ、巧みに小内刈を利かせた。


16分、吉松焦り気味となり、不覚にも内股に続く作りのあまい強引な右大外刈を猛然と浴びせた。間一髪、醍醐は無心にこの無理な大技を受け止めて鮮やかに返した。吉松の足は宙に上がり、巨体はあお向きに落ちた。「一本」三船主審の宣告は下り、すさまじい大歓声は、しばし止まなかった。その中で両選手は静かに礼を交わし、互いに相手を賞賛するのである。まさに名勝負といってよい。

かくて昭和26年の大会は豪華な幕を下ろし、戦後派新進の醍醐6段が歴戦の戦前派選手を連破してさっそうと王座に就いた。柔道は本来の面目を発揮できた。翌27年大会には、前年次勝の吉松6段が初優勝。昭和28年の大会では、さらに吉松7段が連覇。29年には醍醐6段が再度の優勝。30年は吉松7段が3度優勝の偉業を成し遂げた。この5年間こそ華やかな世に言う吉松・醍醐時代だった。

(醍醐敏郎 現講道館道場指導部部長)

暁教育図書
昭和日本史「スポーツ五十年」
松本芳三